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平成29年3月25日(土)勉強会 彼岸と此岸

はじめに住職の調声により讃佛偈(さんぶつげ)をお勤め致しました。引き続き住職の法話のあと、休憩をはさみ当寺衆徒・入江順教を講師としてお話しさせて頂きました。

[住職法話]
彼岸とは彼の岸と書きます。対して我々のいるこの岸は此岸(しがん)です。お釈迦様は約八万四千の法を説いておられますが、一言でいいますと、(殆どのことが思い通りにならないから)現世は「苦」であり、往生して初めて「楽」の世界があると説いています。これが浄土思想でいう「極楽」です。極楽すなわち彼岸、すなわち西方浄土です。般若心経の一節には「掲諦掲諦波羅掲諦(ぎゃあていぎゃあていはらぎゃあてい)」とありますが、これは行こう行こう彼の岸へ、という意味です。因に浄土真宗では般若心経を用いていません。般若心経では彼岸に行くためには修行を経なければならないと条件をつけており、一方浄土真宗ではどんな人でも浄土往生できると説いているからです。ところで彼岸とはどっちの方かと言いますと、西の水平線よりちょっと上のあたりの彼方です。これがキリスト教の天国は真上で、イスラム教ではそれより15度くらい下方のイメージです。

いずれにせよ、現世は苦、往生した次の世界が楽、というのが仏教の原点です。このように彼岸と此岸を説くことで何をいわんとしているかといえば、自分の命、自分の生き様にもう一度光をあてて見つめ直しなさい、そして現世では謙虚に謙虚に生きなさい、ということだと思います。倶会一処(くえいっしょ)といいまして、浄土の世界では再び愛する人と一緒になり、それが永遠の世界であり永遠の命なのだと説かれています。

[入江順教法話]
私事で恐縮ですが、私が住んでいる隣の町に、ルーツは室町時代迄遡る和楽備(わらび)神社という神社がありまして、そこは成人式発祥の地なんですね。敗戦の年、希望を失った若者を励まそうと地元の青年団長が若者を国民学校に集め励ましの会を開いたと、それが新聞に載り、昭和23年に法律で成人式となったそうです。それを記念して青春についての言葉が記されておりまして、その中の一節が大変すばらしいなと思いメモしてきました。
「人は信念と共に若く疑惑と共に老ゆる 人は自信と共に若く恐怖と共に老ゆる 希望ある限り若く失望と共に老い朽ちる」
サミュエル・ウルマンという方の詩の一節です。この言葉に私は大変勇気を貰いました。ひとり楽しむという意味で独楽(どくらく)という言葉がありますが、「こま」とも読みます。回っていると倒れないけれども、止まってしまうと倒れてしまう。私もどんどん老骨になりますが、青春を貰ってなるべく周りの人と関わりながら自分で自分のことを楽しんでいます。これも阿弥陀様のおかげと、感謝しております。

さて、先日春の彼岸が終わりましたが、仏教では私たちの迷える世界を此岸、悟りの世界、浄土の世界を彼岸といいます。今日彼岸は、春分の日と秋分の日を中日としたお墓参りをする期間です。戦後法律も制定され、春分の日は「自然をたたえ、生物をいつくしむ」、秋分の日には「祖先を敬い、亡くなった人を偲ぶ」と定められました。 彼岸に渡るためには、六波羅蜜(ろくはらみつ)といいまして、僧侶がなすべき六つの実践徳目(じっせんとくもく)があります。一つ目は布施(ふせ)。布施には自らの財産を分け与える財施、真理を教える法施、恐怖心をとり除き安心を与える無畏施、の三つがあります。二つ目は持戒(じかい)といいまして、戒律を守る行です。三つ目が忍辱(にんにく)。忍という字は刃に心と書きますが、刃をつきつけられるほどの苦難にもたじろがず耐えることです。四つ目は精進(しょうじん)。たゆまず仏道を実践すること。五つ目は禅定(ぜんじょう)。どんな場合でも心の平静を保ち精神の統一をすること。六つ目は智慧(ちえ)。真理を見極めさとりを完成させる智慧をいいます。

また、厭離穢土(おんりえど)とは、七高僧のひとり源信僧都が著した往生要集に由来する言葉でして、汚れたこの世を嫌って捨てるということです。そして対語は欣求浄土(ごんぐじょうど)。阿弥陀如来の住む極楽世界を清浄な国土として切望することです。厭離穢土、欣求浄土。汚れた現世から極楽浄土への心からのあこがれの思いを表す言葉だと思います。

親鸞聖人が自らの信心のこと、救われた喜び、宗教観、人間観、社会観そうしたいろんなものを混ぜ合わせて作った歌が和讃です。親鸞聖人は七十歳を過ぎてから五百以上の和讃を作りました。その中のひとつに、
「安楽浄土にいたるひと 五濁悪世(ごじょくあくせ)にかえりては 釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)のごとくにて 利益衆生(りやくしゅじょう)はきわもなし」という歌があります。安楽浄土に行った人が再び私たちの迷える世界に帰りきて、お釈迦様がいろいろにさとしを得たように、人々を利益する、そういう働きに限りがないですよ、という御文だと思います。そういうことを気遣って後世の人々に遺してくれた親鸞聖人の優しさをひしひしと感じます。

五濁悪世とはお釈迦様が説かれた仏説阿弥陀経の中に出てくる言葉で、五濁とは五つの(心の)汚れのことです。ひとつは劫濁(こうじょく)。劫とはインドでは時間の単位で、時間イコール時代のことです。今でいえばいじめ、虐待、環境汚染、テロなど時代の中の不安、恐怖のことです。次が見濁(けんじょく)。自分の意見が通らないと怒る、他人の意見を聞かない、そういう態度というのが、やがて断絶を生み争いがおこるということ。三番目が煩悩濁(ぼんのうじょく)。自らを貪り、欲望や憎しみ、不平不満、妬みなどに心を持っていってしまうことです。そして、衆生濁(しゅじょうじょく)。ひとつのことが解決するとまた次の悩みが生まれ、その繰り返しで限りなく悩みが生まれる。悩みの根源を見つめず自らを見失ってしまうことです。最後に命濁(みょうじょく)です。いたずらに樹木を切ったり、鳥や獣を殺す。さらには利害関係や愛情のもつれで簡単に人をも殺してしまったりする。命の尊厳を軽んじてしまうことです。お彼岸を機にこうしたことを考えてみるのも、心の洗濯になるのではないかと思います。