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平成29年2月18日(土)勉強会 浄土真宗のこころ

前回に引き続き、はじめに当寺衆徒・白田光篤の調声により、参加者全員で正信偈・念仏和讃をお勤め致しました。
休憩後、当寺衆徒・入江順教を講師としてお話しさせて頂きました。

先ほどもお勤めの後、皆さんで合掌礼拝しましたが、合掌には二つの意味があります。ひとつはご挨拶の意味。二つ目は自らの心身を落ち着かせて、これから仏様のお話をお聞きします、という意味です。お正月にはおそらく日本人の半分以上の皆さんが初詣にでかけ、必ず合掌しますが、とても尊い習慣だと思います。

念珠の珠には、他の珠よりも大きな珠が一つあります。浄土真宗ではこれを親珠といい、阿弥陀様をあらわしています。さらに左右に二つ他と違う珠があり、こちらは二天といって阿弥陀様を補佐する観音菩薩と勢至菩薩とされています。観音様は大きな慈悲をもって私たちを包み込み、勢至様は智慧の力をもって煩悩にとらわれている私たちの闇を破ってくれるといわれています。この阿弥陀様、観音様、勢至様のことを浄土三尊といいます。念珠のことは、木槵子(もくげし)経という経の中にも出てきまして、もし煩悩に苦しんでいるなら木槵子の実を百八つ繋ぎ合わせ、それをいつも持ち歩いて実を一つずつ繰りながら三宝(仏・法・僧)を唱え、煩悩を鎮めなさいと書かれています。
浄土真宗では阿弥陀仏の御教えを信じていれば必ず浄土往生できる、というのが教義です。煩悩を滅するために数を数える、といった習慣はありません。浄土真宗には「不断煩悩得涅槃(ふだんぼんのうとくねはん)」という言葉がありまして、不断煩悩というのは、たとえ煩悩を断ち切ることができず煩悩を抱えたままであっても、得涅槃つまり極楽浄土に必ず行くことができる、ということをあらわしています。

お配りした資料の一枚に五つの名前が書かれています。真ん中「南無阿弥陀仏」は六字名号ともいいますが、浄土真宗のご本尊阿弥陀仏です。右に「親鸞聖人」左に「蓮如上人」、左端に先の勉強会でも触れました「七高僧」、右端に「聖徳太子」とあります。阿弥陀仏の教えを七高僧の残したものから学んだ親鸞聖人が浄土真宗の礎を築き、第八代蓮如上人がその教えをさらに広めました。そして仏教そのものを我が国にもたらしたのは聖徳太子です。これらを浄土真宗では五尊様とお呼びしています。

資料の中にいくつか和讃がのっていますが、和讃は凡俗の民でも仏様の教えを親しみやすく学ぶことができるよう親鸞聖人が始められた短い歌のようなものです。いわば日本の歌謡曲の源流です。親鸞聖人は比叡山での修行で覚り得ること叶わず、山を下り救世観音にお参りし行く末を問います。その時聖徳太子が現れて進むべきみちをお示しになり、法然聖人の弟子となりました。その時のことをうたった和讃が、
「救世観音大菩薩 聖徳皇と示現して 多々のごとくすてずして 阿摩のごとくにそいたもふ」
 です。多々(たた)とはサンスクリット語で父親のこと、阿摩(あま)は母親のことです。

法然聖人については、
「智慧光のちからより 本師源空あらわれて 浄土真宗ひらきつつ 選択本願のべたまふ」
と歌っています。智慧光は阿弥陀様の別名、本師源空は法然聖人のことです。親鸞聖人は法然聖人のもとで、それまでの雑行(ぞうぎょう)を捨て、正行(しょうぎょう)に帰しました。雑行とは浄土に往生できる行いではないということ、それまで苦労して重ねてきた修行のことを指します。それに対し正行とは阿弥陀様の大願に信じて念仏を称えることで浄土に行けるようになることです。

「如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし 師主知識の恩徳も ほねをくだきても謝すべし」
この和讃もよく知られています。如来大悲とは、我に任せよ必ず救う、という阿弥陀如来のありがたい大悲のこと。その恩には我が身を粉にしてでも報いなさいという意味です。また師主知識の恩徳とは、七高僧が私たちに阿弥陀様の教えを届けてくれた恩のこと。そのことに骨を砕いてでも感謝しましょうということです。翻ってこの和讃は、労力とか、励ましとかそういった目に見えない力に対して私たちはどのように恩を返したらいいか、問いかけています。多くの人のおせわがあって今の私がある、そのことに対しては骨を砕いてでも感謝の気持ちを持ちなさい。ありがとう、ありがとうの感謝の気持ちで死ねる人生を歩みなさい、と教えています。和讃には題名がというものがありませんが、この和讃だけは「恩徳讃(おんどくさん)」として、皆さんに親しまれています。