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平成28年12月24日(土)勉強会:浄土真宗の言葉

合同法要に引き続き、定例の勉強会を開催しました。 今回のテーマは親鸞聖人のみ教えを理解するうえで大切なキーワードをとりあげ、 その意味をお話しいたしました。

まず一つ目は、「御同朋(おんどうぼう)」「御同行(おんどうぎょう)」です。 親鸞聖人は出家、在家を問わず、同じように阿弥陀仏の本願を信ずる人たちを御同朋、あるいは御同行と呼び、区別なく敬意を持って接したといいます。これは等しく阿弥陀仏の慈悲のもとにある同じ仲間であるという思いであり、親鸞聖人の人間尊重を核とした平等観を示しています。他宗では戒名というのがありますが、これは戒律を守ることを約束した人の名という意味があります。浄土真宗では法名といい、法(=教え)を信仰すれば、厳しい戒律を守れない人々でも名とすることができるものです。法名の頭にはすべてお釈迦様の「釈」がつきます。これは親鸞聖人自身が釈親鸞と称していたことが始まりで、釈といういわば同名字のもと、同じ仲間として全ての人が平等に救われる、ということをあらわしています。

二つ目は「悪人正機(あくにんしょうき)」です。 歎異抄(たんにしょう)の一節「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」は、悪人正機を語るものとしてよく知られています。ここにいう悪人とは、犯罪者を指している訳ではなく、どんな行によっても迷いを拭いきれない救われがたい凡夫のことです。除夜の鐘は百八つの煩悩を打ち払うといったりしますが、煩悩の中でも特に三毒といいまして、欲のままに貪る貪欲(どんよく)、思うままにならぬことへの怒りである䐜恚(しんに)、自己中心的な考えに陥る愚痴(ぐち)というのがあります。多かれ少なかれ、これは人間誰しも持っているもので、殆どの人は凡夫だといえるでしょう。阿弥陀仏は善人悪人、賢者愚者、老若男女を問わずあらゆる人を救おうと誓われています。悪人正機とは、どのような凡夫であろうと決して見捨てることはない阿弥陀仏の大きな慈悲を示す言葉であり、自らにむけられたその慈悲に気付いて深く我が身に受けとめることが大切なのです。

三つ目は「自然法爾(じねんほうに)」です。 晩年京都におられた親鸞聖人は、関東の弟子との間で43通の手紙をやりとりしていますが、その中の14通目自然法爾章に出てくる言葉です。「自然」とは、自ずから何かはからおうとしないこと。法爾とは、阿弥陀仏の大願のことです。すなわち自然法爾とは、凡夫の自力のはからいのないことであり、全ては阿弥陀仏の慈悲におまかせします、ということです。み仏の大慈悲を知ることで私たちの救われる道を知り、自分自身の或いは近しい人たちの死についても、安寧の気持ちを抱くことができるのです。

最後は「現生正定聚(げんしょうしょうじょうじゅ)」という言葉です。現生正定聚とは、現世において浄土往生が正しく定まった仲間という意味です。親鸞聖人はこの世で生あるうちに阿弥陀仏の信心をいただくことで、やがて命尽きたとき、必ず真実報土の浄土で仏になることができる、とおっしゃっています。いつどのような死を迎えようと、生きている日常のうちに、阿弥陀仏の信心を深く受けとめることによって、全てを本願にゆだねて精一杯生き抜き、恵みある人生を過ごすことができるのだということであります。