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平成28年11月26日(土)勉強会 : 親鸞聖人の御生涯

まず、当寺衆徒 白田光篤の調声のもと、全員で正信偈・念仏和讃をお勤めいたしました。 正信偈(しょうしんげ)は正式にはお経ではなく、親鸞聖人がお書きになった120句からなる詩といいますか、偈文(げもん)です。その内容を簡単に言いますと、まず始めに、全ては阿弥陀様におまかせしましょう、ということ。そして、阿弥陀様の生い立ちを辿り、なぜ阿弥陀様は極楽浄土をお作りになったかと言うことをお示しされています。さらに後半は、親鸞聖人が師と仰ぐインド、中国、日本の七人の高僧の功績をそれぞれ讃えておられます。七人とは、龍樹菩薩、天親菩薩、曇鸞大師、道綽禅師、善導大師、源信僧都、源空聖人のことで、実際に親鸞聖人が直接教えを受けたのは、弟子入りした源空聖人(法然)だけです。正信偈は最後に「唯可信斯高僧節」(高僧の教えを信ずべし)と締めくくられています。

休憩の後、前回に引き続き当寺衆徒 鈴木光麗より親鸞聖人の御生涯、その後半のお話をさせていただきました。
先月お話しさせて頂きました通り、比叡山を下りた親鸞聖人は、法然聖人に弟子入りし、専修念仏こそ阿弥陀仏の救いに至る道と覚りますが、念仏の教えの人気が反発を呼び流罪となり、法然聖人は土佐へ、親鸞聖人は越後へと向かいます。これを承元の法難といい、このとき親鸞聖人は35歳です。親鸞聖人は流罪に際し、藤井善信(ふじいよしざね)という俗名を与えられますが、これを受け入れず、自らを愚禿親鸞(ぐとくしんらん)と称し、非僧非俗の身として念仏の教えを伝えていきます。愚禿というのは愚かで未熟という意味で、親鸞は七高僧の天親菩薩、曇鸞大師より一字ずつとったものです。また越後に渡るとき親鸞聖人は妻である恵信尼様を連れています。当時僧の結婚は許されておらず(隠れて妻帯していた例はあったと思われます)、正式な妻帯は画期的なことでした。恵信尼様との間にはお子様もお生まれになり、越後の地で暮らしました。流罪となり4年後、罪は解かれますが、さらに3年越後に留まった後、42歳の時関東に移り、布教活動をなされます。本日お勤めした正信偈は、関東の地で著されたものです。

60歳で京都に戻るまで関東一円で教えを広め、多くの弟子達も生まれました。真宗十派といって浄土真宗には十の派がありますが、開祖の血統を継ぐ本願寺派、大谷派の他は、この頃の門弟達が築いたものです。親鸞聖人の教えは関東で広まり成熟して、浄土真宗の基礎を築いたといえます。親鸞聖人が京都に戻った後、関東では弟子達が引き継いで教えを広めていきますが、中には独自の解釈で教えをする者も現れ、混乱が生じます。そこで聖人は息子善鸞(ぜんらん)を関東に派遣しますが、なかなか門弟達の支持が得られず、善鸞は父親鸞から自分だけが秘かに真の教えを授かったなどとして支持を得ようとします。これを知った親鸞聖人が善鸞を義絶するという、悲しい事件が起こったりもしました。その後、親鸞聖人は末娘の覚信尼にみとられながら、90歳でご往生されました。以来、聖人のお導きは750年を経た今も、私たちに受け継がれております。

最後は、ご出席の皆さんと共に、重誓偈(じゅうせいげ)のお勤めをして、勉強会を終了いたしました。