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平成28年10月29日(土)勉強会 : 親鸞聖人の御生涯

はじめの30分ほど、住職の調声(ちょうしょう)のもと、皆さんで正信偈・念仏和讃をお勤めいたしました。ただ棒読みではなく、声明(しょうみょう)といって、抑揚をつけながらの読経です。
勉強会を重ねるごとに皆さんの声が揃い、耳に心地よく響くようになりました。

休憩の後、應慶寺衆徒 鈴木光麗より親鸞聖人の御生涯について、お話をさせていただきました。

親鸞聖人は今から八百四十年ほど前、平安時代の末期ですが、藤原氏の流れをくむ日野有範の子として京都に生まれました。九歳のとき、後に延暦寺座主となる慈円のもとで出家。比叡山に入山されました。 得度の際、夜も遅いので得度式は明日にする旨を告げる慈円に「明日ありと 思う心の あだ桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは」と応え、感嘆した慈円はその夜のうちに得度させたという有名な逸話が残っています。
親鸞聖人は比叡山で二十年に渡り修学につとめ、堂僧(常行三昧堂に奉仕し不断念仏を修する僧)として修行を重ねましたが、証りを得ること叶わず、ついに山を下り京都の六角堂におこもりになられます。その九十五日目の明け方に、聖徳太子が夢にたち、行くべき道を示されました(親鸞聖人は生涯で三度聖徳太子の夢告を受けています)。この夢告により、親鸞聖人は源空聖人のもとに通って仏法を聴き、弟子となり、名も比叡山時代の範宴(はんえん)から綽空(しゃっくう)と改めます。源空聖人とは浄土宗の祖となった法然のことです。当時、専修念仏によって上下貴賤を問わず皆等しく救われる、とといたその教えは大衆に大変な人気を呼んでいました。弟子となった親鸞聖人はたちまち頭角を現し、四年後には「選択集」の書写と源空聖人の影像制作を許されたといいます。親鸞聖人はその後、専修念仏に対する既存宗派側の反発により越後へ流罪となります。そして越後、さらに関東一円で布教した後、また京都に戻ります。親鸞聖人自身は、生涯法然の弟子として九十の長命を全うなさいました。浄土真宗は没後、その教えをもととして、子孫や弟子達により宗派としてのかたちを整えてゆくのです。

仏教は、小さな乗りもの「小乗仏教」と大きな乗りもの「大乗仏教」とに大別されます。簡単に言うと「小乗仏教」は証りを得て自分だけが仏になるために修行をするもので、これを「自利」といいます。大乗仏教は自らが仏になることを目指しつつ、他の人たちも救おうとする「自利」と「利他」の仏教です。日本には奈良時代に大乗仏教が受け入れられました。小乗仏教の国はタイやミャンマーなどです。
奈良時代は華厳宗など王族・貴族間だけでの文化的仏教でしたが、平安時代になるとそれに対抗するかたちで天台宗、真言宗といった大衆にむけた宗派が台頭してきます。当時は出家すると、皆比叡山か高野山で上って修行しました。しかし、だんだんと比叡山は力が強大になって傲慢になっていきます。そうした中で法然のとなえた専修念仏の教えが人々に受け入れられていくわけです。親鸞聖人が生きたのは、日本に入ってきた仏教が様々なうねりとなって市井の人々に根付いていった、そんな時代だったのです。